僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

批判をするのは、語るのは、「愛」があるから。

よく、親鸞会に対して意見を書いているサイトのことを

「誹謗サイト」ってきいていたけど、

その言葉遣いがきらいだな〜。

 

「誹謗サイト」って言葉は、

親鸞会に対して意見を言っている人の愛を感じれていない気がする。

ただ批判しているだけって思って切り捨てている気がする。

そのサイトを書いている人の気持ちを考えていない感じがする。

人として扱っていたら、そういう言葉で片付けれない。

 

サイトを作成している人は、

会内では、意見がいえなかったし、

もしくは意見をいっても聞かれなかった人たちだったから、

 

やめてから意見を言っているわけですよね。

 

それって「愛」なんじゃないかな〜って思う。

 

親鸞会によくなってほしい。

親鸞会に関わっている人によくなってほしい。

加害者にならないでほしい。

被害者を増やさないでほしい。

 

すくなくてもそういう「愛」を僕は感じる。

 

愛がなければサイトを続けることはできない。

 

恨みや妬みだけで書いているって本会側の講師から聞いたことあるけど、

人間、そういうことだけではできない。

 

だって、恨みや怒りだけだとしんどいもん。

 

もちろん、そういう感情がある場合もある。

 

100%愛ともまた思わない。

 

悔しかったこと。

腹が立つこと。

恨みもある。

 信じいていただけに裏切られたっていう強い気持ちもある。

 

それを表現している部分もある。

 

でもそれもできる範囲で受け止めてあげたらいいんじゃないかな〜って思う。

 

「そっか〜オレの行動でここまでムカついているんだな。

自分にはわからなかったけど、深く傷つけたんだな。

ごめんな。」

って思えばいい。

 

そうすれば、いい感じになる。

 

また、親鸞会の講師から、

「批判サイトはあることないこと、ないことないことまで書く」

と呪文のようなフレーズで聞くことが何回かあったけど、

そんなことはない。

事実を書いている。

 

でも人間だから的外れなことも時には書く。

 

100%事実、100%正しいともいえない。

感情にまかせてかくこともあるだろう。

でもそれでいいと思う。

 

それがその人の感じたことだから。

 

 

だから読む人も、リテラシーが必要。

完璧な人間が書いている訳ではないって知っている必要がある。

事実じゃないことも書かれている可能性はあることは知っている必要はある。

そしてそういう文章でも感情だけは受け取ることはできる、

作者はどう感じているのかを受け取ることはできる。

 

それは高森さんも同じ。

高森さんは完璧ではない。

事実じゃないこともいうだろう。

感情にまかせて言っていることもあるだろう。

だけど、100%事実と違うとも思わない。

今の僕には思えないけど、

彼も愛をもって活動していたのだろう。 

(これは頭でいっている言葉)

 

高森さんは本願寺を批判しているけど、

それをみるととても本願寺を恨んでいるだなって感じるけど、

高森さんもきっと本願寺に対して悔しかったんだろうな〜

本願寺に対して熱い愛があったんじゃないかな〜

ってこともふと思う。

 

そして僕もできるだけ事実を書こうとしているが、

あくまで僕の視点からたった事実。

僕にとってのストーリーだとわかって頂けると幸いです。

主観的事実であって、客観的な事実ではないのです。

 

違う人の視点からみたらきっと違うように映っているでしょう。

 

僕も親鸞会からの愛をうけとっていないかもしれない。

というか昔は愛だと想って一生懸命受け取ろうと努力して

やりたくないけど、言われたことを真面目に実行したけど、

あまりにも自分を失いすぎて、そのダメージが大きすぎて、

今となっては、恨んだり怒ったり、悔しい気持ちでいる。

 

それで恨みのパワーで誇張に表現したりもしている時もあるだろう。

 

でもね、やがてはそのネガティブな感情も浄化できるときがくるのを知っている。

というかそのためにブログをしている。 

 

また、ボクは

親鸞会によくなってほしい。」

「一人でも多くの傷つく人が減って欲しい。」

「傷ついた人には癒やされてほしい。」

「自分をいきてほしい。」

という愛ももっている。

 

それでいいと思う。

 

 

僕も、高森さんも、ブログを書く人も人間。

 

愛もあれば、恨みもある。

 

それでいい。

ただ、できれば恨んでいることは自覚して、

そのエネルギーを拡大しないでほしいし、

僕もそう心がけている。

完璧ではないが。 

 

話はそれるが、そもそも、正しいってあるんだろうか。

 

親鸞会の教えは正しいのだろうか。

親鸞さんの教えが正しいのだろうか。

仏教が正しいのだろうか。

親鸞会の問題を伝え改善を促す人が正しいのだろうか。

 

 

僕には正しいということはこの世界にあるんだろうか。

 

と思う。

 

信仰心の強い親鸞会員がよんだら、

親鸞聖人の教えが正しいっていうだろう。

それを唯一伝えている高森さんや、親鸞会が正しいっていうだろう。

 

でもそれは、

他の宗教の人でもいっているよ。

我こそが正しい宗教だって、正しい団体だって、いっているよ。

親鸞会と同じように、自分たちの宗教こそ正しいと心底信じているよ。

 

本当に正しいものってあるのでだろうか。

 

ただ、その人その人の信念ってだけじゃないかな。

 

自分の信念を信じるのはいい。

でも人に押し付けるのは違うよね。

押し付けると相手の気分を悪くする。

 

 

話は戻るけど、意見をいうのは愛があるから。

または恨みや怒りもあるけど、それはその人の悲しみから来ているだけ。

それを受け止めたらいい。

 

そうやって、お互いに思いやり、

愛に溢れた世界になればいいなって

僕は思う。

 

PS

今日は少し客観的な視点で記事を書いてみました。

いつもは自分の過去を思い出し癒やすために、主観的な視点ですが。

 

今後もまた主観的な視点も多いかと思います。