親鸞会で身についた善をしなければならないといって、身を削っていく慣習に関して。
親鸞会に思考も価値観も時間もエネルギーも奪われた訳ですよ。
親鸞会に奪われた訳ですよ。
正直に認めていきましょう。お金も、時間も、青春も、思考も、価値観も、奪われましたよね。今も奪われ続けていますよね。今もそこからでていないですよね。
だから恨んでいるんですよ、親鸞会を。
親鸞会で苦しんでいる人の情報をたまーにみますよね。それでざまあみろ、とか思っていますよね。そんなひどい思いを感じている自分に、罪悪感を感じていますよね。認めましょうよ。
ただ、直接危害を加えたりとかはしていないのは僕の優しさですよね。それでもゴシップ紙をみるような気持ち悪さがあるわけですよ。
そんな自分とはおさらばしたいわけですよ。
親鸞会に、搾取されやすい人間に改造させたことが腹立ちますよね。今も傷ついていますよね。前向きさを奪われましたよね。騙されましたよね。
最初は、人生の目的とかいって、人生を前向きに生きるためのもの、いろんな弁護士とか医師が在籍にしていると聞かされて、立派な人がいるんだな、とか、自分も立派な人になりたいな、とか。
人格教育を大事にしている、と聞かされて、自分の人格を立派にしたいなって思いましたよね。
でも、でも、何も人格成長しないし、負の遺産を一杯背負わされましたよね。騙されましたよね。それでいて、変わらないのは、お前のせいだ、とかいって責められるわけですよ。これがカルトなんですよ。あなたのことを成長させますよ~といって、成長しないと、お前が悪いと責めるわけですよ、そして被害者は自責になる。散々、お金と時間とエネルギーを奪っておいて、ふざけるじゃねえって思いますよ。
後生とかどうでもよかったですよね。最初は、この人生を充実したものにしたいという思いから入りましたよね。
因果の道理はそういうことですよね。そもそも、自分の人生は自分で決められると聞かされて、それが嬉しかったんですよね。自分に主導権がある、それが僕の求めていたものですよね。
ところが、どう生きるかばかり考えることは人生に真面目じゃない、それはすべて丸太であって裏切られて無駄になる、と全面的に僕の思いを否定され、後生のために、親鸞会の奴隷になって、善をしろ、というような話になっていったんですよ。つまりは、親鸞会に騙されたんですよ。そして浄土真宗的には、その後生も親鸞会のやり方では誰も解決不可能な訳ですよ。つまり、どういきるかも否定され、後生も助からない、つまりは、ただ単に親鸞会の奴隷にされただけなんですよ。
それは、悔しいですよね、腹立ちますよね。あれは一体なんだったんだ、と思うわけですよ。
自分の人生は自分で全部決めれるって話だったのに、いつのまにか、親鸞会に考え方を支配され、親鸞会の上司の指示は絶対だ、高森は絶対だっていって、奴隷教育されましたよね。
そして、親鸞会に入会を決めたのはあなたでしょって言われて責任を全部押し付けられましたよね。洗脳したのはお前らだろうかが。
入会する時にそんな説明はなかったし、聞いていないぞ、って思うわけです。騙された訳です。ひどいですね。やめて何年もたつのに、今始めて騙されたことに気づくことだって一杯わるわけですよ。
誰かの奴隷になってはいけませんね。甘い言葉で誘って洗脳して搾取をして、問題が発覚した時にいっても、お前がきめたんだろうって冷たくあしらうわけですよ。優しさのかけらもない、冷たいですよね。
親鸞会は冷酷ですよ。自分達さえ搾取すればいいという考えをもっているのですからね。
僕がS会を選んだ様々な理由。
やめて数年が経ちます。
だんだんとなぜ自分がS会が入ったのか、時間がたつごとに少しづつわかってきました。
やめて1~2年くらいの間で思っていたことは、
①自己肯定感を与えてくれたり、居場所と感じたから
②因果の道理を聞けたから。
という理由でした。
まずは、①からですが、まずは聞き初めてのころ、
僕はよくS会の先輩や講師に褒めてもらうことがありました。
僕はほぼ褒めてもらった記憶がなく、
ずっと褒めてほしい、みとめてほしいと思って生きてきました。
しかも褒めてほしい、と誰かに素直に伝えたこともなかったのです。
正直、ほめてほしいって思いがあったというのも
当時はそれほど自覚することもありませんでした。
そんな友人にも家族にも褒められない、と思っていた僕に、
S会の講師は
「仏縁があるね」
「積極的だね」
とほめてくれるのです。
また、僕が病気になって部会に行けない時は、
元気になりますようにということで、
手紙やごはんをもってきて家に訪問してくれたことは、とても嬉しかったのを覚えています。
そんな風にS会に自分の居場所を見出したんですよね。
先輩たちは正直、変わった人達が多かったので、気があわないと感じる部分もありましたが、
真面目な性格という意味では共通点もあり、
少しづつなじんでいきました。
ちなみに、S会をやめてから、一度高校の同窓会に行ったときは、ものすごくほめられました。
というか、いろんな人が僕が参加したことを喜んでくれて、
自分は愛されていたんだなって気付いて涙ぐんだことがあります。
高校のころは、きつい言葉とかおちょくられることが多かったので、みんなから大事にされていることがわからかったんですよね。
②因果の道理を聞けたから
はい、これも初めて聞きました。
20歳までの僕は努力はするけど、努力が実を結ぶという成功体験がなかったのです。
中学受験、高校受験、大学受験と
一度も第一の志望校に合格したこともないですし、
部活もしましたが、特に華々しい何かを手にしたこともなかったのです。
ただ努力は部活や勉強でも人一倍したのは憶えていて、
努力はするけど実らないなっていつも思っていたところ、
「努力は実る」
と聞いたとき、真理を聞いた喜びや生きる元気をもらったことを覚えています。
今、振り返れば、やりたいくない大学受験などの受験をして、
父親の言われるがままやりたくもない大学の学部を受験したのですから、
当然努力しても、僕が満足する結果がでないのは当たり前なんですけどね。
あと親切すれば人から好かれるっていう布施の話もとても好きで、
今まで親切したのにそれを利用されるという経験しかなかった僕には、
本当に勇気づけられた言葉でした。
まあ、そんな感じで、人生の中における因果関係を知りたいなって思っていたので、
ちょうど心に入ってきたのを覚えています。
自因自果って言葉も聞いてとても嬉しかったです。
うちの両親は僕のせいにばかりする考え方だったので、すごく力強い言葉で嬉しかったです。
そういうようなことがやめて1~2年で振り返り、きづいたんですよね。
そして最近思うようになったのは、
③過去世と現在世との関係を知りたかった。
なんです。
実はS会にいた20歳くらいのときは、なんでこの両親のもとに生まれてきたのだろうって
ほぼ考えてなかったのですが、
28歳から自分と向き合うようになり、
特にここ1-2年の間では、
「なぜこの両親のもとに生まれて来たのか。
自分の可能性をつぶされてしまう相性の悪い両親のもとになぜうまれたのか。」
と強く思っていたのです。
S会ではきっと、過去、両親と縁があったから、今生もご縁がある、
とかそういった類の説明だったと思います。
今、僕があるスピリチュアルの話を聞いて、なるほどなって理解しているのは、
生まれる前にその両親を選び、地球上でやりたいことをするための準備をしようと思ってたっていう解釈です。
なんでこんなに苦労しなきゃいけなかったのかというと、
そんなに苦労したからこそ、同じような苦しんいる人達の気持ちがわかるし、
適切な手助けができるようになるからなんじゃないかな~
って思うんです。
S会では自分で両親を選んだっていう説明はなかったですよね。
なんでその両親のもとに生まれたのかは、過去世に原因があるって言っていました。
いい両親に生まれたのはいいことしてきたから、自分にとって悪い両親に生まれたのは悪いことしてきたから、
的なニュアンスでしたね。
あんまり前むきとは言い難いな~なんて思います。
まあ、そんな思想だった僕も、今は、
生まれる前に自分の人生で経験したいことをあらかじめ考えて、
そのために必要な両親を選んだっていう考えのほうが、
なんか前向きで好きだなって思うわけです。
他にもS会を選んだ理由、思いついたら書きたいなって思います。
では~
S会の「人生は苦しみ、人生は幻、人間は悪の塊」、この思想を心の底にいれてしまったけど、前を向いて歩いていく。
S会の思想を自分の根底の考えの中にもってしまうと、
人生全体が暗くなります。
「人生は苦しみ」
「人生は夢・幻」
「人間は悪の塊」
こんな話を僕は10年間の間に、何百回も聞いて、だんだんと洗脳を受け、信じるようになりました。
また上司に言われるがまま、
人にも話をしてしまい、それが跳ね返ってきて、自分を洗脳してしまいました。
すごく後悔しています。
S会に所属していたときは、
そんな人生は地獄のようなものだけれども、
阿弥陀仏に救われれば幸せになれるんだ、
っていうマインドがあり、一筋の光がありました。
でも今の僕は、S会に入ることもないし、
一般的な浄土真宗を学びたいとも思っていません。
つまりやめた今も、
「人生は苦しみ」
「人生は夢・幻」
「人間は悪の塊」
っていう感覚だけが残ってしまったのです。
人生は苦しみと思うと、苦しいことばかりが目に入ります。
楽しいことがなかなか目に入ってきません。
人生は楽しみと思うと、楽しいことが目にはいりますが、
すぐにそう思うことは難しく、ちょっとずつ楽しい出来事を味わっていくとそうなりますが、
時間がかかりますよね。
人生は夢幻もそうです。
世の中の人が喜ぶ出来事があったとしても、自分はなぜかむなしく感じてしまう。
仕事でうまくいこうが、彼女と楽しもうが、子供ができようが、
おめでたいことを幸せと感じず、
ああ。どうせ消えていくんだって思ってむなしい気持ちになる。
人間は悪の塊も、
人から愛されていること、人の優しさがわからなくなってくる。
攻撃的な人ばかりが目につく。
本当に他者のために、人類のために活動している人や、思いをキャッチできなくなってしまう。
こんなつらい感覚で生きることは、本当に人生は地獄だなって感じちゃうんですよね。
S会に出会うまではこんな感覚になったことはありませんでした。
つまり、S会は、全人類を幸せにするといっているけど、
人を本当に苦しめているということになります。
僕は日々、このS会の思想を自分の中から消していくことを毎日の日課としています。
この思想を入れることは、
一時的に人生が苦しくなることよりも、どんな社会問題よりも、
人を長期にわたり、深刻に苦しめるものだと感じます。
今様々な社会問題が言われています。
レイプ、大人同士のいじめ、子供のいじめ、ちかん、
決してこれらを軽視するつもりはないですが、人生全てを否定する思想に変えられるというのは、少なくとも僕にとっては、
最もダメージのある行為のように感じます。
思想というのは、その人の根底を流れるもので、その出来事が終わっても、つまりS会をやめても、深く影響を与え続けるのです。
そこから完全に逃れるには長い時間が必要です。
僕は、こういう思想を20歳の時に聞かされました。
世間知らずの判断能力が低い学生に教え込むs会は、
本当に恐ろしい活動をしていると感じます。
僕はこの恐ろしい思想を入れてしまったがために、
そこから抜ける努力を毎日しています。
もう3年になるかな。
少しづつ抜けてきていますが、
まだまだブログに書かずにいれないほど、自分の中にこの思想が残っています。
でも、
いつかはこの暗闇から抜けて、
人生は苦しみもあるけど豊かなもので、
一つ一つがかけがえのない経験で、
人間は悪い部分もあるけど、より善い存在になろうとしている
そんなことを心から思える日を夢みて、
これからも人生を歩んでいこうと思います。
読んでいただきありがとうございました。
人生は夢・幻と何度も聞かされ、生きる気力がなくなっていた自分
タイトルの通りなのですが、
人生は夢・幻と何度も聞かされ、そう思い込み、生きる気力がなくなっていた自分
に気付きました。
そして今もそう思っています。
どんなに努力していても、どんなに素敵なご縁に恵まれても、
すべて夢・幻と消えていくのではないだろうか、
という不安があります。
これが真理なのでは?って思ってしまいます。
S会の話で、僕が在籍していた10年間で数百回、自分の口からも数百回した話があります。
秀吉が「なにわのことも 夢のまた夢」といっている内容から、
蓮如さんの話になり、
心の支えは死んでいくときになんの支えにもならない、
という話です。(詳しいことは割愛します。)
秀吉のような成功者でさえ、人生は夢の中で夢をみていたように儚いと言っているのだから、
私たち凡人は彼ほど成功することはできないから、
夢の中の夢の中の夢の中の夢をみているのだ
というのです。
つまり、人生とは意味がないもの、一時的な幸福しかえられないもので、
死んでいくときには、夢をみていたような、幻のような儚いものでしかない
というのです。
正直なところ、今の僕はこれは真理だとおもっている節があります。
だからこそ、あらゆることがあまり楽しめていないのです。
先日、彼女と語りました。
デートしたことも、ふと振り返れば、夢・幻なのではないか、
と思ってしまいます。
短い期間だけ付き合っても意味ないのではいないか
と思ってしまいます。
虚無主義とでもいいましょうか。
むなしい、そんな気持ちになるのです。
これは、間違いなく、S会の話を聞いてからです。
それまでは、思ったことがありませんでした。
彼女は、僕の傷ついた心を真剣に癒したいって強く願っています。
これも一時的なのでしょうか。
もし、そうだったとしても、その願いが僕の心に届き、僕の心は癒され、これからの人生が豊かになることは間違いないです。
そしてきっと、彼女の性格を考えると、もし別れたとしても、
ふっとした瞬間に僕のことを思い出し、僕の幸せを願ってくれるでしょう。
こういうご縁に恵まれた僕はとても幸せだと思うのです。
大切におもってもらえるってすごくありがたいことです。
これも夢・幻って言われるのってどうなのかな?
って思います。
彼女のかけがえないのない気持ちを無下に扱われているような、
そして僕もそれを夢幻って思うと、
彼女の優しい想いを受け取れない、と感じます。
ただ、
だからとって、それが真理なのでは?
って不安は消えません。
この考え方を心の底で信じている限り、きっと、僕は「今」を楽しむことはできないし、
努力を真剣にできないのは確かでしょう。
楽しめないなら、きっと体に悪影響がでて、健康で長生きをすることも難しくなるでしょう。
実際にS会と関わってから、体の調子が悪くなりました。肩や首が痛い、みたいな感じです。
この考え方は、心にも体にもいいことはほぼないでしょう。
でも10年間、S会に在籍にしたことにより、そう思ってしまっている自分がいます。
人生は本当に夢・幻か、そうではないのか、
それはこれから僕が自分の人生を歩んでいく中でわかっていくことだと思います。
電話を必ずでなきゃいけない、という感覚について少し思い出してみました。
S会に入って、真面目な人ほど、親鸞会独自の感覚が入ってきて、
それで苦しむということがあると思います。
特に僕は真面目ですし、場の空気感を感じ取って、自分のものとして吸収するので、
親鸞会の人達のもつ感覚を沢山吸収してしまい、
今はそれを抜くのに苦労をしています。
その一つが、
「電話には最優先ででなきゃいけない」
みたいな感覚。
S会の上司からかかってきたら、プライベートな時間でも、
何をしていても、それを途中でやめて最優先で電話にでる
ってことを教育されたような気がします。
それが今も残っていて、S会とは何の関係もない人から連絡きても、
無理して今やっていることをやめて電話にでたりとか、
運転しているから電話にでたくないなと思っても、運転しながらでなきゃいけないとか思っていしまうんですよね。
それを通じて過去どんなことがあったのか、思い出してみました。
ーーーーーー
あれは大学4年生の時かな、僕は講師と二人で車で移動していた。
どこかに遠くにいって、部室に戻る最中だったと思う。
あと2分走らせたら、部室に戻れるくらいのタイミングで講師の携帯に電話がかかってきたんだよね。
講師は車を運転していたんだけど、そのままでるんだよね。
「はい、はい」と緊張感のある感じで返事をして、
「申し訳ありません。」と謝罪をしている。
講師よりも偉いと言われている講師長から電話がかかってきたんだよね。
どんな内容で謝罪しているのかはわからないけど、
きっとそんなに恐縮して謝らなくてもいいことなんだろうな~
って今なら思う。
それから、住宅地だったんだけど、車を道路の端にとめて、
講師長と話をしている。
最優先で講師長の電話に対応するんだよね。
もちろん、僕と講師はそれまで話をしていたんだけど、
僕と話をしていたのに、ごめんとも言わずに講師の電話が最優先っていうのも、
なんか残念。
そんな風に、上司第一主義というか、
上司から電話があったら、車を運転していてもすぐに対応しなきゃいけないし、
あと1分で部室だから、部室に戻ってからかけなおしたらいいのにしない。
そして上司にはいつもぺこぺこしたり、
緊張感をもって関わらないといけない。
そういうことをみてきてしまったんだよね。
上司から電話があったらすぐに折り返しましょう、
という支部長もいたなぁ。
僕は彼らの感覚って正直好きじゃないんだよね。
でも若い時にそれしか知らなかったら完全に吸収しちゃったんだよね。
S会と関わっていると、
プライベートを楽しむと感覚もなかったし、
電話がきたらすぐに対応しなきゃってずっと思っていた。
そういう緊張感が今も残っている。
そういうのを抜いてリラックスしたい。
電話はでてもでなくてもいい、ぐらいの感覚にしたい。
友達との電話は楽しみたい。
普通のことなんだけど、僕はその普通がほしいだよね。
誰かに情報を許可なくシェアする恐怖について。
友人にあるライングループのやりとりの一部を見てもらって、
あることを相談しようと思ったんです。
それで、写真をとって、プライバシーの関わる部分はスタンプで隠してから、
送ったんですよね。
ただ、そのライングループ名を隠し忘れてしまって、
そっから自分を沢山責めてしまいました。
勝手に情報を共有してよかったのか?
グループ長に確認を取らなければいけなかったのではないか?
これってS会で関わってからでてくるようになった恐怖感なんですけど、
ちょっと向き合ってみようと思ったのです。
でも絶対しんどくなります。
頭痛にもなります。
わかってはいるのでやめておいたほうがいい気もするけど、
暇ですし、真面目な性格ゆえにか、向き合いは解決するかもしれないやり方の一つなので、
やろうと思っています。