僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

幸せになれる法則をしりたかった。

こないだ心理カウンセラーの方と相談してわかったことがある。

 

僕は幸せになれる法則をしりたかったんだ。

だから、因果の道理をきいて、

布施つまり親切はもっともやりやすい善で、

必ず結果がかえってくるときいたときは

うれしかった。

 

とても心のたよりになる話をきけた、と思った。

 

僕は子供のころからとても親切な人間だった。

やさしい人だった。

でも、その優しさを周囲の人達は確かに喜んでくれていた。

その優しさから人気者で愛されていたとおもう。

 

おばあちゃんも僕のことを優しいとよく

いっていた。

 

僕は家族に明るさと優しさを運んでいたと思う。

 

友達も多かった。

大声で笑う小学生だった。

 

気は小さいほうだった。

 

僕は自分の優しさを利用されたと感じたことがある。

優しくするほど相手は図にのるという構造。

ちなみに、今もそういうことはおきる。

子供のころと違って、修正できるようになったが。

 

するとね、僕は相手に元気になってほしい、

相手のためを思って優しくしているのに、

それで逆に図に乗られたり、傷つけれると、

結構、ショックはおおきい。

 

優しくするほうが損なのかな。

 

あいつのように優しくないほうが得なのかな。

 

僕も人のことを考えない人間になったほうがとくだな。

だって優しさって利用されるから。

だした分だけ損だ

って思うようになったんですね。

 

僕は先天的に優しい。

相手の考えていることを満たしてあげることが、先天的にできる。

子供のころからそう。

そういう自分の先天性のある優しさを自分で否定してしまったんですね。

 

今も自分の優しさを否定しているところがある。

 

小学校高学年のときも、

二人ではいつも仲の良い友達が、

複数であつまってゲームをしていたときに、

僕を狙おうって話になって、

ショックだったな。

 

その時だけだったかもしれないけど、

とても優しくして仲良くなったはずの人が、

僕を攻撃する側にまわる

っていうのは結構経験して、つらかった。

 

僕にとって、

自分の特徴である優しさをだしたら、

それを利用されて逆に苦しめられたり、

優しくしているのに裏切られたり、

する行為は、

あまりにも理不尽だなって思って、

深く傷ついたんですよね。

 

だから、

中学生のころは、

深い友達との人間関係を求めなかった。

表面上だけで付き合っていた。

傷つくのがこわかったから。

でも、本当は深い人間関係がほしかった。

 

つまり、お互いに優しく関われる人達。

優しさと愛で、お互いを幸せにしていける人達。

秘密をまもり、相手の意見を尊重しあい、辛いことがあれば語り合えて、

未来に向かって夢の話をして、お互いの夢を応援する、

すきな女の子の話もして、お互いに相談にのり、

そんな関係がほしかった。

 

優しさが生まれるよい人間関係がほしかった。

 

高校生のときも、

とても仲良かった人にだけ伝えていた秘密を勝手にもらされて

ショックをうけた。

ボクは彼になんでつたえたんだって怒らなかった。

お前を信頼してお前だけに伝えたのにって怒らなかった。

飲み込んだ。

 

そういえば、ボクは昔から怒らないな。。

それで相手が調子にのっているんだな。

 

そうやって、

人を信じては裏切られ、

優しくしては利用され、

利用されても優しくして、

裏切られても信じて、

 

ってやってきたんだけど、

正直心は傷ついて、、、

もう心には力が残っていなくて。。。

 

結局大学受験に逃げて、、

友達や恋人をつくること、

人と人が繋がりあう素晴らしい世界をあきらめていったんですね。

 

そして、

 

僕は親鸞会にであった。

 

親鸞会では正直者は馬鹿をみない。

因果の道理だっていう。

正直というよい種まきは必ずかえってくる。

バカをみるという悪い結果は、正直というよいたねまきの結果ではなく、

悪い別の種まきの結果だという。

 

親切をすれば人に好かれるという。

 

これは絶対だと。

 

そういう話をきいて、

そうか、僕の優しさって必ず返ってくるんだなって思えた。

希望をもてた。

僕は因果の道理という、幸せになれる法則をきいて、

 

自分の特性の優しさを肯定できた。

 

これが嬉しかった。

 

ここまではよかった。

 

でもね、後々、親鸞会の内部にはいけばいくほど、

自分の優しさを利用されることが何度もおきた。

自己犠牲を重ねるようになった。

支配をされた。

 

子供のころもショックだったが、その以上に

ショックなことが沢山あって、

傷付きすぎて、

裏切られすぎて、

感情のスイッチをきらないと生きていけないようになった。

感情を感じれないようになってしまった。

 

因果の道理を信じた先に、

どんどん組織のやり方にそまって、

大きなダメージをうけた。

 

たとえ、因果の道理が素晴らしくも、

親鸞会の組織はひどい。

内部にいけばいくほどひどい。

 

僕は、教えと人って別なんだなって思った。

気付いたのはやめる1-2年前。

 

因果の道理をとけるのに、

なぜこんなにギャップがあるのか。

そのギャップがまた人を苦しめる。

 

信じさせておいて、

その後叩き落とす。

 

これはやられた人間にとっては、

一生消えない心の傷。

親鸞会のやっていることは、純粋で温かい人間にとっては、

致命傷ともいえるおそろしい心の傷を負わせている。

 

僕はなんとか今回復している。

でも回復しきれていない人もいるんじゃないかって思う。

 

親鸞会のやっていることは本当にいかつい。

 

親鸞会は入り口は、美しく飾っているが、中身は糞。

 

まさに糞に金箔こそ親鸞会

糞をそのままだしていたら、まちがったりしないが。

 

でも最初はよくみせておいて、

立派な教えをといておいて、

中身がぐちゃぐちゃ、中身が闇っていうのは、

まさにカルトなんですよ。

 

本当にひどくて卑怯なやりかた。

 

僕は親鸞会のやりかたは許すことはできない。

本当に腹がたつ。

 

僕の悲しみは深い。

僕以外にもきっと深い悲しみを感じた人もいるのもわかる。

 

なにが真実を伝える団体だ、ふざけんな。

真実かどうかは定かではないが、

仮に真実だとして、真実なら何をしてもいいのか。

人としてサイテーなことをしてもいいのか。

騙してもいいのか。

 

親鸞会には謝罪してもらいたい。

傷つけた沢山の人にあやまってもらいたい。

大学生という社会経験がないひとに、

宗教という人生の軸になるものを話し、

しかもその話しかたが一方的にこれが正しい、

という言い方をして洗脳していく。

 

このやりかたは絶対に間違っている。

こんな宗教ってカルトしかないと思う。

健全な宗教でこれは絶対にありえない。

傷ついた人が沢山いる。

失った時間や人間関係やお金は沢山ある。

 

涙を飲んだ人達がいる。

 

そんなことを思うと、

親鸞会、許せんって思う。

 

でもこの言葉は親鸞会には届かない。

そしてまた悲劇のスパイラルが繰り返されている。

 

本当に悲しい。

 

胸がいたい。。

 

辛い。

 

 

 

今の僕のできることは僕が僕の心の傷を癒やすこと。

そうすればきっと僕ができることが増えるはず。

 

そうおもって毎日記事を書いている。