親鸞会での活動で嘘をついてしまった痛み。
僕が大学4年生のとき。
あるビデオ講師を2週間に1回くらい、公民館に招いていました。
それを長らく続けました。
どれくらい続けたでしょう。半年以上、もしくは1年くらい続けていたように思います。
では、当時を思い出したいと思います。
ある時、親鸞会の組織が変わることになりました。
それをきっかけに僕たちの住んでいる地域に、ビデオ講師がくることになったのです。
僕たちの地域では、部室がないため、講師もいません。
そのため、親鸞会の活動をするのは、部室がある中心部に移動して専ら土日が中心でした。
平日だと部室にいくための移動時間がとれないんですよね。
そんな中、僕たちの地域にビデオ講師が赴任したことにより、
N講師から、「カインドくんの地域でもビデオ講師をお招きして、聴聞をしたらいいのではないか。」
と言われました。
僕は、それはいいかもとも思いましたし、上司の提案は上司の指示であり、実行しなければならない、と思い、
「はい、わかりました。」
と答えました。
ではどこでしようかな、と思い、大学近くの公民館をいくつか探しました。
すると大学から歩いて3分くらいのところに、ちょうどいい場所を発見したのです。
早速、借りたいということを公民館の運営者に伝えると、
手続きが必要です、とのことでした。
その際、公民館を借りる際のルールが記載されてある手引きを渡されましたので、手引きを一通り読みました。
ルールブックには、「公民館は宗教活動の利用を禁止する」、と書いてあったのです。
僕は一瞬ドキッとしました。
親鸞会のビデオ講師をよんで、高森さんのビデオを聞くっていう宗教行為をまさにしようとしていたからです。
でも、僕は、すでに洗脳されていて、
ここに書いてある宗教と、僕たち親鸞会の宗教は違うと言い聞かせました。だから大丈夫だ。
これは以前、大学内で声掛けをする際に、K講師から「宗教ですか?」と聞かれたら「(君の思っている)宗教とは違う。」と答えなさい、と指導されたことが身についてしまっていることが原因でした。
僕は「宗教ですか?」と聞かれたら「はい、そうです。」と誠実に答えるべきだし、そうしてきましたが、Kさんは「違う」と答えろ、と叫び、指導するのです。
実際そのような答え方を僕がしたかは覚えていませんが、何十回と同じ話を聞かされていくうちにそのような考え方に洗脳されていったように思います。
自分の誠実さ、正直さという信念を曲げてしまったように感じます。
また、高森さんの本にも、仏法者は、真実を伝えるためには時として世の中のルールを屈してはならない。破らなければならないときがある。世の中のルールは所詮人間が考えたルールだから真実伝える我々は屈してはならない。
という内容が書いてあるから、
僕も公民館のルールを破らなければならない時がある。
と自分に言い聞かせました。
そして、僕は大学に登録してあった哲学のサークル名で、公民館の申請書にサインをしたのです。
それはそれは辛かったです。
世の中のルールを尊重し、人の優しさを尊重する僕にとっては、
親鸞会での活動は心痛む過酷な活動でした。
親鸞会がいう真実(今となってはそれも甚だ疑問ですが。)のために、嘘をついたりする行為は、本当に自分を傷つける行為だと思います。
しかも、たしか公民館は無料でかしてくれていました。
市民の税金のおかげで、使わせてもらっているのに、
僕は嘘をついてかりている。
それが僕にとっては耐えられない行為なのです。
あまりにも自分の誠実さという信念に反するため、心の痛みは大きくなり、心を使わなくなり、感情を感じないように努力していました。
また、当時の僕は親鸞会の人たちに聴聞の機会を提供したいという、親切心で、
その公民館をかりるという行為をしていました。
少しでも阿弥陀仏との縁を結んでほしいって思っていました。
僕の地域では、ほとんど親鸞会員がいなくて、部室などはありませんでした。
なので、僕はその地域にする少数の学徒のために貢献しようと思って、
善意で、一人その嘘をつくという痛みを伴う行為を行い、
みずからの名前を記載し、
みんなのために一人犠牲になっていたように思います。
誰にもこのことは相談せずに、一人抱え込んでいました。
ちなみに、社会人の方も参加し、僕によく「ビデオ聴聞の機会を設けて頂きありがとうございます。」的なメッセージもくれて、
喜んでいました。
今になっては、その少数の人たちを喜ばせることと、
同時に一部の人を騙さなければ活動ができない
っていうのは本当に過酷なことでしたし、
あの激しい活動は果たして意味があったのか、と時折虚しさや罪悪感を感じます。
学院で、上司の指示は上司が責任をもつって聞かされたけど、
実際サインをしたのは僕の名前であり、
心の痛みを抱えたのは僕一人。
上司の指示から始まったことだけど、
親鸞会の上司は命令はするけど、責任をもたない人達だったので、
上司不信にもなっていったと思います。
というか、公民館を借りるのはいつも学生の名前でした。
親鸞会という宗教団体に所属する講師は、社会からみると不審者なので、学生がサークル活動の一貫としてかりるしかないんですよね。
学生に負担のかかるシステムでした。
当時の僕は、講師のために少しでもお役にたてるなら、それくらい全然いい、とも感じていましたが、
今思えば完全な自己犠牲です。
このことは誰にもいえず、自分の中で抱えてきました。
あまりにもつらすぎて心の中に封印した思いはまだまだあるように思えます。
ひとつづつ思い出して、向き合って、
振り返って、
解消していきたいです。