僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

親鸞会から聞かされた悲しい考え方①

本当に悲しい心の使い方を叩き込まれてしまった。

 

この考え方に初めてふれたのは大学二年生のとき。

 

それまでもなんとなく先輩たちの動きで感じ取ってはいたが、初めて言葉で説明をされた。

 

 

僕は、大学の部室がある中心部から離れたところに住んでいた。

 

なので、親鸞会の話を聞きにいくことが大学の授業がある平日では難しかった。

 

そこで、平日はある先輩が親切心から僕に親鸞会の考え方を電話で教えてくれた。

 

先輩は東京で働く社会人一年目。

 

所属する親鸞会の組織は違うけど、心をかけてくれていた。

 

 

僕は当時はなんとなくその先輩が好きだった。

 

運動神経も抜群の方だったし、僕が送った年賀状もいいねって言ってくれたりとか、

 

僕を「たよれる兄貴タイプだよね」って言ってくれていた。

 

そんな能力の高いちょっと魅力の感じる先輩から、僕のよいところを言ってもらえることが嬉しかったのだ。

 

僕は彼から好かれていたと感じていた。

 

 

あるとき、その先輩は、

 

親鸞会発行の「とどろき」という冊子を読みながら解説してくれていた。

 

ーーー

蓮如さんがいた時代、道宗という人が、聴聞会場となる建物をつくっていた。

 

 

 

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ちょうどこんな感じの建物をつくっている最中だった。

 

道宗が屋根の上にのって、束にした藁(わら)をしきつめていた。

 

わらは今でいう瓦みたいなものだと思っていただけるといいかな。と思う。

 

屋根の下にいる人が藁を束ねたものを上に投げていた。

 

屋根にいる道宗がそれをキャッチして、屋根に敷き詰めるという作業をしていた。

 

しばらくすると、蓮如さんがやってきた。

 

蓮如さんは藁を屋根にいる道宗に投げる作業をしたい、という。

 

道宗は恐縮していた。

 

そして蓮如さんは下から藁を屋根にいる道宗になげいれた。

 

道宗は藁をキャッチして、そのまま屋根にしきつめた。

 

ところが、道宗は、本来敷き詰めるべき藁の置き方とは違って、上下を逆にして敷き詰めるたのだった。

 

ちなみにこちらが本来の敷き詰め方↓

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そのままだと雨漏りがする。

 

「なんでそんな敷き詰め方をするのか。」と道宗の横にいた人が尋ねると、

 

蓮如さんのなされたようにするのだ。」と道宗はいった。

 

という話がとどろきにかいてあった。

 

 

 

蓮如さんの投げ方でたまたまた上下逆転した状態で、道宗さんに届いただけであって、

 

僕は、それをそのまま敷き詰めることにはどうにも理解できない。

 

なにか理不尽な、とても腹のたつ気持ちになった。

 

僕は激しく反発心を起こした。

 

先輩に「どういうことですか?」ってきいた。

 

なんて非効率で意味のないことをするのかって思った。

 

僕は、正しいことを主張したから先輩は受け入れてくれると信じていた。

 

一緒にこの話はおかしいよねって言ってくれると信じていた。

 

ところが、先輩は、

 

「この道宗のあり方が仏教では正しいんだよ。」

 

(本当は仏教ではなく親鸞会で正しいと言われている洗脳されたあり方)

 

 というのであった。

 

僕はとてつもなくショックを受けた。

 

「仏教では上司の指示に従うことが善なんだ。

 

もし、上司の指示の許可をえずに勝手によいことをしても仏教ではそれはよいことにはならないんだよ。

 

これが仏教の教えだ。

 

まだカインドは、聞き始めで仏教の教えの理解が浅いからよくわかっていないと思うけど、

 

高森先生は正信偈法蔵菩薩因位時で解説されている。

 

法蔵菩薩(後の阿弥陀仏)は世自在王仏(法蔵菩薩の師匠)に許可をえてから私達を救うために行動された。

 

僕もカインドに話すことを、カインドの担当講師であるNさんに許可をとっているし、毎回報告をしている。

 

勝手にカインドに話をしているわけではないんだよ。」

 

と聞かされたのだった。

 

僕はショックだった。

 

健全なことを言ったはずなのにそれを否定された。

 

しかも、仏教ではなんでも許可をとらなければいけないという。

 

僕にこうやって先輩が話をしていることも、僕のしらないところで、担当講師に許可と報告をしているっていうのもとても違和感があった。

 

先輩が主体的に話したいから話しているだけかと思っていた。

 

そしてどんないいことでも、上司の許可がないと、よいことにはならないって聞いたのは衝撃だった。

 

つまり、僕が今までいいことと思ってきたことはすべていいことではなかったということ?

 

そしたらいい結果も返ってこないということ?

 

許可をえていなくていいことをしても、いいことにはならないから、救いには繋がらないってこと?全く無駄なことをしていたってこと?

親鸞会では、親鸞会の教えを布教することや親鸞会に布施をすることをいいことだといい、それにより救いに近づくと教えられていた。)

 

僕はとても不安を感じていた。

 

自分は間違っていたのか、、、という不安だった。

 

先輩ととても違和感のあるやりとりをして、

 

怒りや不安や恐怖を感じたが、

 

この時点ではまだ自分の考えを大事にしていた。

 

 

しかし、

 

やがて「絶対無条件服従」という洗脳の世界に僕がはいっていくことは、

 

この時点の僕にはわからなった。

 

続きはまた書きたいと思います。 

 

 

ーーPSーー

読んでいただき、ありがとうございました。

 

今日は書いていて胸が張り裂けそうでとても痛かったです。

 

当時の思いを感じながら書いていました。

 

過去を思い出したところで、未来に向かって前進していないのではって思ったりもしますが、

 

こうやって一つづつ過去の感情を思い出し決着をつけて過去とお別れをすることは、

 

痛みを癒やし自分らしさを取り戻す上で効果があることは何度も体験してきたことなので、ヘトヘトになりながらでも続けています。

 

ちなみに、もし共感されたり、コメントがあればいただけるととても励みになります。

 

親鸞会員の方は同じ痛みを感じた人もいらっしゃると思うので、そういった声もとても聞きたく思っています。

 

今回は、ある方から親鸞会に関係のなかった人でもわかるように聞きたいという要望をいただきましたので、

 

できるだけお応えできるように書かせてもらいました。

 

それでもわかりにくいところもあると思いますので疑問があったらお知らせください。

 

それでは今回も読んでいただきありがとうございました。