僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

親鸞会のことを忘れれたらいいね。

タイトルの言葉を、今まで会員の方二人に言われました。

 

ふたりとも親鸞会の組織の問題点はよく認識していて、教えだけ聞くっていう姿勢をとっている人ですね。

 

彼らの親鸞会歴は長いですが、ずっとうまく距離をとっていて、

 

深くかかわらずに聴き続けている人たちです。

 

 

親鸞会のことを忘れれたらいいね。」

 

聞いたときは、忘れていいんだっていうのが感想かな。

 

僕としては、忘れちゃいけないのではないかって感じています。

 

 

ああ、僕に覚えておいてほしいんじゃないかって僕のほうで感じています。

 

きっと、親鸞会の人たちは、自分たちのことを覚えてほしいだろう

 

忘れられる存在になりたくないだろうって

 

感じていて、

 

覚えてあげなくちゃってなっているのかも。

 

 

僕なりの優しさなのかも。

 

 

でもね、きっと彼らは僕のことは忘れているんだろうな。

 

活動に忙しいんだろうな。

 

そう思うとこっちだけ覚えていて、損している感じもして、

 

しんどい。

 

 

ただ僕としては忘れてほしくない。

 

僕の存在は覚えておいてほしい。

 

僕とのつながりは感じていてほしい。

 

 

僕が当時の僕なりに本気で関わってきた人たち。

 

 

でもね、

 

寂しいんだけど、

 

僕がやめていくときって、誰も声をかけてくれなかったな。

 

やめてから、彼らの顔をみるのが辛いから、SNS親鸞会の友達を削除したけど、

 

もう一回申請してきてくれる人もいなかったな。

 

 

寂しかったな〜

 

あれだけ心をかけたのに、そんなものか〜って思ったよ。

 

でも、先輩で仲のいい人っていたかな〜

 

心を許せた人っていたかな〜

 

いつも僕が誰かに「与える」って言う認識だったような気がする。

 

 

今度、つくる仲間は何があっても、

 

つながってくれる人がいいな〜。

 

 

生涯の友達ができたらいいな〜。

 

 

 

なんか、どっちが正しくて、どっちが間違いって感じがする。

 

親鸞会にいたときは、

 

会内の人が正しくて、会外の人が間違い。

 

 

で、今は、会外の人が正しくて、会内の人が間違い。

 

みたいな感じで思っているかな〜。

 

でもその考えもあっているのかどうかわからず不安を感じている。

 

 

親鸞会が間違ってあってほしいと願い、

 

それに関連する情報をネットで探す自分もしんどい。

 

 

きっと、

 

忘れれるっていうのは、

 

どっちが正しいとか間違いとかなくて、

 

自由な世界なんだろうな〜。

 

 

だから、親鸞会を信じたい人は信じたら〜って。

 

僕は僕の道を進むってなっている感じなんだろうな〜。

 

 

 

忘れたいって僕は口ではいうけど、

 

忘れちゃだめだって思っている。

 

忘れるってなんか絆がなくなった感じがするから。

 

僕なりに彼らとつながっていたいから。

 

なんで、つながりたいんだろう。

 

彼らの顔は今でも鮮明に浮かぶ。

 

 

やめてしばらくたつけど、

 

僕はまだ彼らのことをちょいちょい思っている。

 

 

もう忘れてもいいんだろうけど。

 

僕なりに、一人ひとりに愛情深いからな〜。

 

一人ひとりを大切にしてきた。

 

一生懸命話しをしてきた。

 

誰よりも後輩のことを考えてきた。

 

 

 

でも、僕がやめたとき、誰も後をおってくれなかった。

 

寂しかった。

 

虚しかった。

 

 

誰か一人でも声をかけてほしかった。

 

 

あんなに僕のことを感謝していた人がいたのに。

 

誰も深くは僕がやめた理由を知りたがる人はいなかった。

 

まあ、いたのかもしれないけどね。

 

 

なんか悲しいな〜

 

なんか辛いな〜

 

僕の親鸞会歴って、やめたらあまりにも何も残らなくて悔しいな〜

 

残念だな〜

 

 

 

そういえば、今しゃべっている会員の方は、

 

会員とか会員じゃないとか、関係なしに、つながっているよね。

 

自分は親鸞さんの教えに出会えて嬉しいけど、

 

それが正しいっていう価値観ではなさそうだし、

 

これって健全な宗教に対する価値観のような感じがする。

 

 

親鸞さんの教えは絶対というより、

 

信じたい人は信じたらいいっていう相対

 

って思えたらいいな〜

 

 

まだまだ親鸞会の教えがけが絶対って感覚

 

残っている〜

 

 

忘れることが、彼らの僕に対する愛情を受け取らないことになるのかなって思っちゃっています。

 

でも、彼らも人間だし、

 

きっと忘れることが、僕にとっていいのなら、ぜひ忘れてほしい

 

って言うんだろうな〜。

 

僕が幸せになってほしいって思ってくれるんだろうな〜

 

ってこともちょっと思ったな。

 

 

つまり、彼らは僕の幸せを願っているから、

 

僕は覚えてあげなきゃ彼らは嫌がるだろうって思っているけど、

 

そうではなくて、

 

忘れていいよ〜って言ってくれている気がする。

 

 

僕らしい道に進んだらいいよ〜

 

っていってくれているのかな。

 

 

そう思った。

 

 

今、Yさんとはよくしゃべっているから、

 

そのあたりのことを聞いてみよう。

 

 

彼女らは、会をやめた人にどんな気持ちでいるのかも、

 

聞いてみようかな。

 

 

ああ、しんどいな。

 

 

早く前向きに進みたいな。