焦る感覚との向き合い。
今日(5/3)、親鸞会の夢をみました。
夢なので、実際にあったことではなく、空想です。
僕が車の運転手で、みんなをむかいにいく予定です。
ところが僕は予定より20分ほど遅く待ち合わせ場所につく感じです。
すると、メールがきました。
Hさんから、「すでにまっています。」
とのこと。
きっとHさんは怒っているだろうな〜って思って、
僕は焦ってしまいました。
必死で言い訳を頭の中で考えます。
というのも、親鸞会では遅刻は厳禁だし、
Hさんというのは、僕が学生時代からんだ人ですぐ人にどなる人です。
本来は絡まないほうがいいのかもしれませんが、
僕は人が好きだし、一人でも多くの人を担当したいと思っていたから、
実際に彼を担当したことがありました。
実際に、親鸞会時代はいつも焦っていました。
1分でも遅れたら、遅れて申し訳ないです。
なんてよく言っていました。
出発時間の直前から準備して、今にして思えばあえておくれるようなことも多かったです。
学院では、集合時間に10秒遅れただけでも、
「遅刻」だと皆の前で言われました。
何回も遅刻している内に、何度も指摘をされ、謝らせられ、責められたりします。
何回もやられているうちに、自分が悪いことをしている人間のように錯覚もするようになりました。
学院では常に何かをしなければならないので、忙しい状態のなかでの時間管理です。
時間管理ばかりされると、
時間に遅れないよう、それで怒られないようにばかり意識がむきました。
彼等はそういう教育で時間管理ができるようにと思ったのですが、
逆効果です。すくなくとも僕には効果がでませんでした。
こんな恐怖で人を動かす教育は戦時中ぐらいで、健全な教育をしているところにはもうないかと思います。
恐怖がふえると、自分の内面、自分がどう感じているかには意識がむかないようになっていきました。
外側にあわせて生きていました。
学院の人達は、一生懸命、彼等なりの常識を身に着けさせようとおもっていたのでしょうが、すべて逆効果です。
学院の中で何十年も閉じこもり、新しいことを学ぼうとしない人達から、学ぶことは、残念ながら何もなかったのです。
むしろ僕達が教える側のほうが彼等にとっても幸せだったかもしれません。
そんな風に悪い癖がたくさんみにつき、何年もその癖が残り、
気付いてからそれらの癖を減らしていきました。
今も少しは残っていると思います。
特に「焦る感覚」は残っています。
親鸞会の内部では、常に人を焦らせるように感じます。
焦っていても何もいいことはありません。
ただ自分を見失うだけです。
そんなことを思い出しました。
話は夢に戻ります。
僕は、普段意識していることは、夢の中でも表現されることが多いのです。
昔だったら焦るだけの場面でも、
今日の朝の夢では、
焦らないように、冷静になろうしている自分に気づきました。
内面の目をむけている自分に気づきました。
焦ろうとする感覚と戦って、冷静さを保とうとする自分に気づきました。
そうやって、
「焦る感覚」を減らそうとしていました。
こんな風に親鸞会をやめてからも、
親鸞会で身についたネガティブな感覚は残っているケースは多いです。
それは自然と世の中のいい縁の中で、消滅する場合も多いですが、
しっかりと意識して感覚を減らしていくこともまた必要です。
読んで頂きありがとうございました。
いつか貴方とあえると嬉しいです。
僕は直接あってしゃべるのも好きなので。