僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

誰がかいているか詮索されそうで怖い

これをみた親鸞会の誰かが、

僕がいったい誰なのか、ということを詮索されそうで怖い。

 

僕は友人とあったりしているが、そのことを彼の名前を出さずに色々と書きたい。

 

あったことを書きたい。

心震えたことを書きたい。

感動したことを書きたい。

 

彼とあって、自分の心が癒され、元気になっていく様子を書きたい。

 

でも、具体的にかけば、

親鸞会の人達がこのブログをみて、その友達が誰かがわかって、僕が誰かがわかったら、万が一の可能性を考えてしまって怖い。

 

その友達に僕と会っていることは特に口止めもしていないし、

彼はある程度は親鸞会の組織を信じているから、

僕とあっていることを親鸞会にいうかもしれない。

 

そしたら、その友達に「僕とあうのは危険だ」

 

親鸞会の人達に吹き込まれないか心配だ。

 

僕が親鸞会から危険人物とみられるのも怖い。

 

危険だと言われると、別に危険な人物じゃないのに、

自分は危険な人物なのかな、って思う傾向がある。

 

人からどう見られているかが自分が自分をどうみるか、に影響されるのが僕なんですよね。

 

あと、友達が親鸞会の人達に吹き込まれて、洗脳されて僕とあうことに後ろめたく思わないか、心配だ。 

 

洗脳されたら、もう僕とあってくれないかもしれないし。

 

僕は彼とあうことが幸せだし、

癒やしにもなっている。

 

親鸞会にとめられたくない。

 

この文章読んでいる人は、そこまではしないだろう。

または、そこまではわからないだろう。

と思っている人もいるだろう。

 

僕も頭ではそう思う。

 

でも、心は怖い。と感じる。

 

親鸞会時代に、何度か

親鸞会をやめた人を、批判する講師の人達がいた。

あれはこわかった。

今度は僕も批判されるのかと思うと怖い。

 

僕は批判されるのが苦手。

批判されても自分の道を突き進むのは苦手。

 

そんな怖いことならブログもやめておこうかと思う。

 

講師のNさんが言っていたが、

親鸞会をやめていく人は、死んだのも同然だ」

と聞いたことがあって、

僕もそう思われるかと思うと辛いし、彼の感覚にあわせて死んだ感覚にもなりそうにもなって、精神的に不安定になる。

 

頭では、本当はそんな怖いと感じなくていいのも知っている。

いろんな不安になること、恐怖を感じることが親鸞会で多すぎて、

今ではちっちゃなことでも、異常の恐怖を感じるようになったな。

 

 

この感覚はちゃんと治したいな。

 

親鸞会から受けた傷を癒やしたい。

親鸞会を忘れたい。

 

自由に生きたい。

自分の人生をいきたい。

 

強く願う。