誰がかいているか詮索されそうで怖い
これをみた親鸞会の誰かが、
僕がいったい誰なのか、ということを詮索されそうで怖い。
僕は友人とあったりしているが、そのことを彼の名前を出さずに色々と書きたい。
あったことを書きたい。
心震えたことを書きたい。
感動したことを書きたい。
彼とあって、自分の心が癒され、元気になっていく様子を書きたい。
でも、具体的にかけば、
親鸞会の人達がこのブログをみて、その友達が誰かがわかって、僕が誰かがわかったら、万が一の可能性を考えてしまって怖い。
その友達に僕と会っていることは特に口止めもしていないし、
彼はある程度は親鸞会の組織を信じているから、
僕とあっていることを親鸞会にいうかもしれない。
そしたら、その友達に「僕とあうのは危険だ」
と親鸞会の人達に吹き込まれないか心配だ。
僕が親鸞会から危険人物とみられるのも怖い。
危険だと言われると、別に危険な人物じゃないのに、
自分は危険な人物なのかな、って思う傾向がある。
人からどう見られているかが自分が自分をどうみるか、に影響されるのが僕なんですよね。
あと、友達が親鸞会の人達に吹き込まれて、洗脳されて僕とあうことに後ろめたく思わないか、心配だ。
洗脳されたら、もう僕とあってくれないかもしれないし。
僕は彼とあうことが幸せだし、
癒やしにもなっている。
親鸞会にとめられたくない。
この文章読んでいる人は、そこまではしないだろう。
または、そこまではわからないだろう。
と思っている人もいるだろう。
僕も頭ではそう思う。
でも、心は怖い。と感じる。
親鸞会時代に、何度か
親鸞会をやめた人を、批判する講師の人達がいた。
あれはこわかった。
今度は僕も批判されるのかと思うと怖い。
僕は批判されるのが苦手。
批判されても自分の道を突き進むのは苦手。
そんな怖いことならブログもやめておこうかと思う。
講師のNさんが言っていたが、
「親鸞会をやめていく人は、死んだのも同然だ」
と聞いたことがあって、
僕もそう思われるかと思うと辛いし、彼の感覚にあわせて死んだ感覚にもなりそうにもなって、精神的に不安定になる。
頭では、本当はそんな怖いと感じなくていいのも知っている。
いろんな不安になること、恐怖を感じることが親鸞会で多すぎて、
今ではちっちゃなことでも、異常の恐怖を感じるようになったな。
この感覚はちゃんと治したいな。
親鸞会から受けた傷を癒やしたい。
親鸞会を忘れたい。
自由に生きたい。
自分の人生をいきたい。
強く願う。