僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

殺生を作っているからみんな地獄におちる、という親鸞会の意見について僕なりに反論する。

タイトルにある件。


私達には後生の一大事があるっていうことは、


僕はずっと完全には否定しきれないでいます。


僕は親鸞会の意見を否定できるか、気にならなくなるようになりたいのです。


もしくは否定できなければ、今は考えてないですが、いつか健全な浄土真宗の教えを学ぶ日もくるかもしれません。



まず親鸞会の意見。


親鸞会は、私達は、いきるために仕方がないといいながら、

 

沢山の生き物を殺している。

 

牛や豚を食べるということは、食肉処理場で牛や豚が自分達のために殺されているということだと。

 

それから、命の価値は同じという話があり、

一部のキリスト教では動物は人間より価値が低いというがそんなことはない。

 

だから、人間を殺すのも動物や虫を殺すのも同じ罪だと何回も聞かされました。

 

最後は因果応報により、すべての人の本質は極悪人であり、

 

悪因悪果で後生は地獄になるという説明をします。

 



僕はこの話を否定しようと様々な考え方をしてきましたが、いまだに否定しきることはできていませんし、

 

未だに囚われて地獄に堕ちるかもしれない

 

と恐怖にとらわれています。

 

マインドコントロールされているだけなのか、

 

もしくは親鸞会のいうように真実かもしれない、

 

という思いが消えません。

 

 

ただそうはいっても今までいろんな反論を考えてきましたので、

 

今日は僕なりの反論を書きたいと思います。

 



まずは、動物を殺したくないって思っている人も沢山います。

 

その中でもベジタリアンヴィーガンとなって、

 

一切動物由来のものを口にしない生き方を選んでいる人もいます。

 

そしたらきっと親鸞会は反論するでしょう。

 

確かに動物をさけることは可能だけど、

 

家を建てたり、道を歩いたりしていると気付かずに虫を殺すことがあるじゃないか、と。

 

危険だと思えば蜂とかの害虫を殺したり、蚊を叩くこともあるんじやないか、と。

 

確かにそれは避けられないでしょう。

 

ここまでくると、僕は反論が難しくなります。

 

あえて苦しいけど反論するならば、

 

蚊とか蜂に関しては、正当防衛という捉え方もできます。

 

また本当は虫を殺したい訳じゃないけど、気づかずにそうなっちゃっている。

 

できるだけ減らす努力はしているし、

 

心では虫の命を大事にしたい、

 

と思っている。

 

また追加で意見をいうと、

 

親鸞会では、身体よりも心の行いを重く見ますよね、

 

なので心の行いでは、命を大事にしよう、と思っている。

 

っていう具合ですかね。

 

でも、こうかくと、心でいいことを思っているのは自惚れであり、

 

仏教聞いていないからわからないのだ。

 

本性は我利我利なのだ、

 

という反論がくるでしょう。

 

少し長くなったので話はここまでにしたいと思います。

 

本性は本当に我利我利なのか、については、別の機会に話したいと思います。

 

ちなみに、すべての人は殺生をしているから悪因悪果で地獄に堕ちるという理論の反論意見がありましたら、

 

教えてもらえると大変参考になります。

 

よろしくお願いします。

 

 

 

僕自身のことに興味をもってくれる人に相談したかったなあ〜という思いを感じました。

昨日はある集まりにいきました。

 

最近、行くようになったところなのですが、

 

お互いに自分の抱えている問題とか願いとかをシェアして、

 

聞きあうという集まりです。

 

お互いにいいたいことを言って、

 

それに対してアドバイスやコメントはしない。

 

ただただ言いたいことをいう。

 

それをお互いにききあうんですね。

 

僕は、自分の痛みを複数の方にきいてもらうと、

 

こんな僕でも受け入れてもらえるんだ

 

こんな話でも聞いてもらえるんだ

 

って思って、痛みが癒やされるんですね。

 

それで行ってました。

 

 

8人くらいのメンバーでした。

 

1時間15分お互いの話をしました。

 

僕もいいたいことをいいました。

 

そのあと、

 

その会の運営についてメンバー同士で話すんですね。

 

僕はまだ二回目なので、まあ詳しいことはわかりませんが、

 

聞いておりました。

 

すると、まとめ役の方が、

 

「ライングループで、

 

グループ内のことを話をしているじゃないですか。

 

そのグループ内にいる人が、

 

同じグループの人に直接ラインしたんですね。

 

そこまでは別にいいのですが、

 

批判的なメッセージを送られたそうです。

 

それが私は悲しくて、

 

今ここの集まりにきているメンバー内で

 

行われたことなので、

 

シェアしたいと思いました。

 

こういったことが行われないようにしていただけると嬉しいです。」

 

僕はそれを聞いて「もやっ」としました。

 

「なんだろう。

 

この感じは。」

 

話題は次に移ったし、

 

そこをふかく向き合おうとは思っていなかったので、

 

昨日のうちは気づかなかったですが、

 

今日、朝、シャワーを浴びていたら、

 

思い出すことがありました。

 

 

 

S会では、

 

どんな悩みを相談しても、

 

僕が誰かから悪口言われていたり、

 

金銭的に厳しかったり、

 

S会の影響で学業的に大変な状態でも、

 

「後生に比べたら大したことがない。

 

T先生のご苦労に比べたら大したことがない。」

 

といって、

 

却下されました。

 

あのとき、どんなに悲しかったことか。

 

まったく受け止めてもらうことがありませんでした。

 

悲しいのは特に上司は僕がS会の集まりにいくこと以外、

 

僕に興味をもっていなかったような気がします。

 

だから僕が相談する内容は自分のことはなくなり、

 

後輩が会に参加し続けるにはという内容しか相談することができませんでした。

 

上司もそれしか興味がなかったからそういう展開になりました。

 

僕が傷ついてもいても、

 

そうやって、放置するし、

 

僕のことを

 

徹底的に批判する。

 

思い出したくないので、

 

具体的にはここにはかかないのですが、

 

本当に傷つきました。

 

 

そして傷つきすぎて、

 

感情がわからなくなったんですね。

 

ーーーー

だから、昨日の話に戻るのですが、

 

そうやって、一人の悲しみを上司は考えてくれる。

 

みんなが考えてくれる。

 

っていう昨日のシチュエーションにあって、

 

羨ましく思え、

 

僕もこうやって考えてほしかったなな〜

 

って思いました。

 

同時にS会で関わった上司の言葉に僕はいかに傷ついたかをしり、

 

またしても、

 

あの団体に関わったことを深く後悔しました。

 

次につなげる反省をしたいのですが、

 

痛みが大きすぎてまだまだ後悔しかできない現状です。

 

まだまだS会の痛みは大きいです。

 

こうやって、日常の中で

 

日々の痛みで感じたことを書きながら癒やしていきたいと思います。

今の僕が課題に感じていること。

お久しぶりです。

 

記事を更新しなくなってから1ヶ月以上はたったかな。

 

S会とか関わった痛みで今も強烈に残っているものを書いてみたいと思いました。

 

今、なんとか回復のために頑張っていますが、

 

いろんな手段を活用していますが、

 

それでもかなり苦戦しています。

 

・自分は悪い人間である。

悪い人間と思っているから、

悪い自分を多くの人にしってもらうことが怖い。

S会時代の痛みが大きく人に聞いてほしいのですが、

そんなことを語るとみんな逃げていくんじゃないか、という不安を抱えています。

 

・自分は責められる人間である。

世の中で人と関わると自分のウィークポイントをついてこられそうで

怖くて人に自分の内面を語ることができない。

 

 

たまにこのブログを開くことがありますので、

そのときにコメントやメッセージは確認させてもらいますので、

返信は遅くなるかもしれませんが、

必ずします。

 

一緒に、S会時代の痛みを癒やしたり、

S会時代の痛みを回復させるに有効な手段のご提案がありましたら、

 

ご連絡いただけると幸いです。

 

僕としては、

S会時代の痛みを語りあえる仲間ができたらな〜

って思っていますが、

 

なかなかそういった方にあうこともできておらず、

困難さを感じております。

 

どうかご協力いただける方はご連絡くださると幸いです。

お礼とブログからの卒業

お世話になりました。

 

ようやくS会時代の心の傷が癒えてきて、

 

やりたいことをやれるような精神状態になってきました。

 

今まではS会で関わった人達のことを何度も思い出しては、

 

傷ついたり、腹が立ったりして、

 

本当にしんどかったです。

 

これからは、やりたいことをやって、

 

人生を楽しみたいって思っています。

 

やりたい仕事もみえてきました。

 

こちらのブログやツイッターの皆さんに応援して頂いたおかげで

 

継続して進めることができたし、

 

過去の痛みにもむきあえたし、

 

少しずつ癒やされていきました。

 

本当にありがとうございました。

 

もともとのブログの目的が、S会時代の痛みを癒やすだったので、

 

目的はある程度達成できたので、

 

今後の更新はなくなるかと思います。

 

このブログを開く度に痛みを感じるので、

 

しんどい気持ちになることが多かったですが、

 

卒業となると晴れ晴れしい気持ちと

 

少しさびしい気持ちもあります。

 

コメントをくだされた方、

 

コメントをいただかなくてもみてくださった方、

 

どんな気持ちでみてくれていたんだろう、

 

とか思います。

 

みなさん、ありございました。

 

また、

 

このブログはしばらくは公開のままにしておこうかと思いますが、

 

もしかしたら非公開にするかもしれない、と思います。

 

わかりませんが。

 

これからはS会の思想に縛られることのない、

 

自由な人生を

 

歩みたいと思います。

 

皆様、本当にありがとうございました(*^^*)

 

 

by カインド

 

ブログ半年間続きましたー

今日でブログを始めて半年間(*^^*)

 

続けれた嬉しさもあり、

 

やめても親鸞会を思い出すしんどさもある。

 

今日、過去記事をふりかえったけど、

 

どうだろう。

 

癒やされたい、僕の過去を知りたいって思って始めた。

 

当時は感情を殺して活動することが多かったから、何が自分の人生で起きているか自分でも把握できていなかった。

 

まずは、ただただすぎていった過去にむきあいたいって思ってやってきた。 

 

どれだけ癒やされたかな〜、ってことを知りたくて、

 

過去のブログをよんで今の気持ちと比較したかったんだけど、超しんどくなっちゃった。

 

当時のしんどい過去の気持ちにもどっちゃうね。

 

まあでも多少は癒やされたな〜。

 

 

あと、いい記事だな〜っていうのもあった。

 

怖いっていう感情を意外とありのままに書いているなって思った。

 

そうそうこのブログは客観的に親鸞会を分析していくっていうことも大事にしているけど、

 

それ以上に自分の気持ちを大事にしているんだよね。

 

 

ブログを続けていく中で、

 

ツイッターを始めるようになった。

 

ツイッターを通じて、本願寺の僧侶の方との出会いがあった。

 

妙好人と思われるブログもしれた。

 

おかげで、浄土真宗の本来の教えの理解もすすんできた。

 

やりはじめたときはどれだけ続くだろう?、

 

1ー2週間間かなって思っていたけど、続いた。

 

最初の二ヶ月近くは毎日記事をアップしてきたけど、

 

最近は1週間に1回くらい。

 

応援してくれる人もあらわれて、

 

ツイッターでは「いいね」を押してくれる人もいて、

 

本当にそのおかげで続けれたなって思います。

 

ありがとうございます(*^^*)

 

これからもどのくらい続くかわかりませんが、

 

まだやめる気はありませんので、

 

今後ともよろしくおねがいします☆

批判に対する恐れと、会内での報告をするルール

学生時代の会内では、報告連絡相談ということがきつく言われていました。

 

あれは2年生だったでしょうか。

 

確か雨の日の夜だったように思います。

 

講師(40代の方)はどこかにでかけていました。

 

講師がいない部室の中で、3〜4人で会話をしていました。

 

部室は大学から少し距離の離れたところにあり、親鸞会が借りているところでした。

 

部室には、このような机が並べられいて、その上には紙皿に入った一口サイズのチョコレート等のお菓子がはいっていました。

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講師がいないということもあり、みんなでお菓子を食べてリラックスしようというリクレーションみたいな時間だったと思います。

 

当時は、平日5日間、ほぼ毎日部室でなしかしらの集まりがありました。

 

講師の方の講義は平日3〜4日間、残り1〜2日間は学生だけで集まって仏教の勉強をしたり、おかしを食べながら自由にしゃべったりもしていました。

 

休日は2日間、まるまる講師の講義が入っていました。

 

なので学生だけで集まって話せるのは、講師がいるときに比べて、自由な気持ちになり少しいいたいことがいいやすい環境だったと思います。

 

話は戻しまして、その会話の流れの中で僕はあることを言いました。

 

「関東の学生のやりかたはよろしくない。関西にいったけどあちらのほうがよかった。」

 

僕は関東の学生部に所属していたのですが、関西の学生部の運営のやり方をみる機会があったのです。

 

具体的に何がというのはあまり明確には言えてなかったと思いますが、

 

僕なりに関東のやり方に問題があって改善する必要があることを皆さんに伝えたかったのです。

 

実際に関東のやり方で、みなさんが疲弊しているのは明らかでしたし、みなさんのためにもという思いでした。

 

関東の狭いやり方にとらわれずに、関西もみてほしい、という気持ちでした。

 

そのためにも関西の学生たちのやり方と比較して伝えました。

 

そのあと、ある先輩と口論になりました。

 

その先輩と何をしゃべったのか覚えていませんが、

 

まずいことを言ってしまったっていう感覚と、

 

わかってもらえていないという感覚を

 

覚えています。

 

今、振り返ると、当時から、会話のできない人、感情的になる人が多い集団でした。

 

 

翌日あたりに、所属している講師の次に上の立場である、学顕クラブという立場のGさんから電話がありました。

 

「はい、カインドです。」

 

「カインドくんのことだから、そんなことはないと思うんだけど、

 

昨日、会を批判しませんでしたか?

 

昨日ある人から聞いたんだけど。」

 

ある人というのは少し口論した先輩のことです。

 

僕は当時は親鸞会は唯一真実を伝えている団体だと思っていて、

 

僕は大学の授業を休んでまで布教活動などをしていてみなさんから信頼は厚いと思っていましたので、

 

親鸞会に貢献しているとの自負はあったし、批判や否定をするような人間でないことは周りは理解していると思っていました。

 

なのに、僕を「会を批判しているかも」ってちょっとでも疑われたことはかなりショックでした。

 

僕は怒り口調になって、

 

「そんなことはありませんよ。」

 

と強くいいました。

 

「わかりました。」

 

と学顕クラブのGさんはいい、一旦電話は終了しました。

 

当時はこの出来事を誰にも相談することなく、自分の中にひめていて、

 

心の傷みたいなものが残りました。

 

 

 

それからしばらくして、

 

僕は教学講義というものを受講するようになったのです。

 

当時は教学講義にでるためには、教学試験というものに合格する必要がありました。かなりの問題量で勉強してから僕は1年半かけて合格しました。

 

合格までの費用に累計3〜5万円くらいはつかっていたと思います。(学生にしてはまあまあ大金でした。)

 

いざ教学講義をうけるとなったさきに、

 

先輩からある誓約書を渡されました。

 

「活動に対する不満や批判的言動は絶対に致しません」
「本会を誹謗中傷する者があった場合は、上司に直ちに報告致します」
「誹謗する者を知りながら黙認した場合には、どんな処罰でも受けます」

 

こちらにサインしなければ、教学講義をうけることはできないというのです。

 

当時は教学講義をはやく受けたいと思っていましたし、

試験さえ合格すれば受けれると聞いていたので、

かなり努力をしてをしていました。

 

なのに、こんなことにサインをしなければ、いけないというのか。

真面目な僕は、サインをすることはちゃんと守るというタイプなので、

これは本当に心苦しいものでした。

 

30分くらい悩んでから、心を殺して、無理やりサインしたのをおぼえています。

 

そして、いつかの先輩が、僕の態度を批判と受け取り、

上司に報告したことは、こういったことを上から強要されていたのか、

ということもわかったのです。

 

 

最後に、

たまたまみつけたサイトにこんな記事がありましたので、

自分の心境と同じですので、またいつかこの記事を見直したいと思うので、

自分のためにのせておきます。

信じるということ

 

ブログやツイッターの特徴

目的

①学生時代に親鸞会の価値感を受け入れてしまったためその価値感をぬいて自分らしい価値感に戻し、より精神的に成熟すること。

僕は、大学時代に親鸞会にであいましたが、以前から自分の思いをあまり大事にできずに親や誰かのいった価値感を過剰に重視して、進路等の重要な選択をしていました。精神的に未成熟な状態で親鸞会にであい、親鸞会だけが正しいのだという彼らのパワーもあいまって、僕は親鸞会の価値感に染まってしまいました。なので親鸞会の価値感を理解して、彼らの価値感とお別れをして、自分らしい価値感を育成したいと思います。そして人間関係も仕事もとことん楽しめるようになりたいと思っています。

 

浄土真宗の教えに親しむこと。

こちらは少しづつですが、浄土真宗の教えを理解していこうと思っています。信前ですし、あくまでも自分の理解や味わいですが、自分なりに 表現していこうと思っています。 

 

 

文章の表現方法に関して

・「親鸞会に〇〇をされた」という100%親鸞会のせいにする表現を使ってしまう場合があります。

親鸞会に○○された。」「親鸞会が悪い」「親鸞会のせいで」っていう言い方やあり方は、受け身なため使っていて違和感はあります。本当は「自分には○○の課題があって、親鸞会の○○を受け入れてしまった。」などの主体的な表現を使いたいです。自分で選んだんだっていう表現を使えるようになりたいです。仏教の言葉でいうと、自分には〇〇という原因(因)と親鸞会の〇〇という縁があったため、苦しんだ(果)っていう表現が使えるといいなあ、と思っています。

ただ、まだまだ痛みの気持ちが大きく、親鸞会が100%悪いっていう表現を使ってしまうこともあります。親鸞会は悪くないとか、親鸞会を擁護している訳ではないです。)成長過程であると温かく見守っていただけると幸いです。

 

・現時点では僕の個人的な情報をあまりのせておりません。

住んでいる地域、年齢、など個人が特定される可能性があることは表記しておりません。これは僕のブログが親鸞会の上層部に発見され、個人が特定され、もし僕が彼らに批判的な対応をとられたらとても怖いと感じているからです。この怖さが低減し、また読者の方とより交流したい、またより親鸞会であった出来事を伝えたい、等の気持ちが強くなれば、もう少し具体的な内容を書くかもしれませんが、現時点ではこれが精一杯の書き方だと感じています。

 

 ・◯◯先生、◯◯上人、といいかった言い方をせずに、◯◯さんと書いています。

親鸞会時代に思っていもいないのに、〇〇先生と言いすぎて、過去しんどくなった経験があるため、今はそういった言い方をしておません。また言いたくなったらいうかもしれません。

 

※内容は随時更新していきます。