今はほぼ無職ってことが辛い。
僕は今はほぼ無職なんですよね。
今日はぶっちゃけたいと思います。
正直、こんなことを言ったら、誰かに「無職ということを情けない」、
とか「親のスネカジリ」とか批判されそうで怖いです。
でも隠していても、それって誠実じゃないかなって僕は個人的には感じていて、
隠すのもそれもまた辛いから、
せっかく見てくれている人もいるしね、
正直に言っちゃえって思います。
でもやっぱり怖いですけどね。
昔、講師に大学生のとき、親から仕送りをもらっているって話をしたら、
それはひどいことだ〜すねかじりだ〜
なんていっぱい言われて傷ついたな。
すねかじりってことをなんか具体的にひたすら説明していたな。
今思えば、その講師は僕が親からお金をもらっているのが羨ましかっただけで、
その羨ましいという気持ちを素直にいわず、
自分が上の立場であるということを利用して、
僕のことを悪い扱いをしてきたよな、
それで責めてきたんだろうな〜って思うよ。
よくそんなことを自分より15以上も若い学生にいえるよね。
なんか、大人げないというか、弱い者いじめがひどいというか、
卑怯だよね。
そんな感じで、親鸞会の講師って、罪悪感が強くて、立場の弱い人を責めてくる人の割合が多いですよね。
で、そっから僕は少しずつ親からお金もらうことにも罪悪感がつのるようになったな。
別にその講師は、なにかお世話になったわけでもないし、
何も助けてくれるわけでもないし、
まあ無責任なんですけどね。
せめて、僕にお金をだしていたり、僕にそこまで貢献していたら、不満としていうなら
わかりますけど、そういったことはまったくないひとでしたね。
よく、そんな立場で、そこまで人を責めれるなあ、と今なら驚きますが。
ただ、まだ僕自身、お金を稼げていないことに対しての罪悪感が強いんですよね。
俺は社会人としてだめなんじゃないか
ってよく責めちゃいます。
高校生のころの友達にも、あったら無職って言わなきゃいけないのがつらくて
会えてなかったりします。
自分を責めていると、それだけで自分の可能性を失っちゃいましすね。
親鸞会の講師って人をせめて、人の可能性を奪いまくっているんですけど、
これでよいことをしていると思いこんでいるから、
って感じですよね。
まあ、話は戻しまして、
無職ってことがわかったら、誰もセッションを申し込んでくれないのではないかって思っていたから、
隠したかったんですけど、
つまり人って形をみるから、その形をちゃんとしなきゃって思っていたけど、
でもそんなことはない人も多くて。
むしろ、僕が今まで関わってきた親鸞会の人が、中身をみれない、形しかみれない人が多かったからそう思うようになったのであって。
世の中の人たちってそうじゃないな〜って思ったんですよね。
今関わっている方も、僕の内面をみてくれています。
無職だってことは伝えてあるから、それを理解したうえで、
リスペクトしてもらえています。
そんな経験が増えていくことで、
「ああ、なるほど、地位とかお金とか仕事の有無とか、そういう外側だけじゃなくて、
内面見てくれる人もいるんだな」
って嬉しく思うし、体験を通じて理解していくんですよね。
それで、まだちょっとカミングアウトするのは怖かったけど、
今日は無職ってことをいってみました。
ああ〜こわい。
なんて言われるんだろうな〜
そんなやつからはセッションなんか受けれるわけねえ、とか言われるのかな。
って不安になる。
でも、確かに不安になるけど、
じゃあ仕事していたり、地位があったらセッションできるのかって考えると、
それってNOだと思うな〜。
セッションできるかどうかっていうのは、今お金を稼いでいるかどうかではなくて、
そういう能力があるのか、その能力を日々高めているのか、
ってことだけやんな。
あ、なるほど。
ってことは、僕の状態を表面だけみて、セッションをうけるのはどうかな〜
って思う人はいてもいいけど、それってセッションの目的をどう思っているのかな、
なんてことも思ってきた。
クライアントってさ、自分が変われるかっていう観点でカウンセラーを選ぶよね。
この人と一緒にやったら変われそうっていう観点でみるよね。
だから、クライアントはカウンセラーの僕の文章みたり、実際に体験をうけたりして、
その能力があるかどうか、自分が変われるかどうかって、感じ取って判断することだから、
そう考えたら必要ないね。
なるほど、僕が無職でも、セッションを相手がうけるかどうかの理由には関係ないのか。
大事なことはクライアントが変われるか、どうか、だもんね。
ほな、怖いこと、隠しているなって感じていることも
いっちゃえ〜って感じだな。
ってことで今後もぶっちゃけトークしていきます。
今日もありがとう!