僕と新たな人生と過去の痛み

S会という不健全な宗教団体で長年幹部として活動し、やめてからも心の痛みと向き合い、新たな人生への向うためのブログ。すこしでも共感してくれる人と年齢問わずにお友達になれたら嬉しいな。月数回の更新頻度。ツイッターもやっています。

親鸞会は二元論で、成熟した社会は多様性。

今日は5/22です。

 

親鸞会ってものごとをなんでも二元論でみるんですよね、

 

地獄と極楽、

 

正しいか間違い、

 

善か悪か。

 

高森さんの考えにそっていたら正しくて、高森さんの考えにそっていなかったら間違いで。

 

みたいな。

 

 

 

でもこの考え方って

 

苦しい。

 

学院では、常識がない、とか常識だ

 

とか彼等のせまい価値感の中で、二元論的に正邪を決められたけど、

 

それってどうなんだろうって思う。

 

そういう感覚だったら、

 

誰かが間違いになるし、自分がかりに正しかったとしても、

 

いつ間違い側になるかわからないので恐怖に怯えることになる。

 

誰かを否定したり、批判したり、責めたりするし、

 

苦しみしか生み出さない。

 

あと、向上しないよね。

 

あの人達なりには毎日向上しているつもりだろうけど、

 

ある特定の価値感を高森さんに示されて、それがちょっとでもできるようになることを向上と勘違いしているようだけど、

 

向上って、いろんな価値感をとりいれて、新しいものの見方ができて、それにそった何かを現実化できたりとかをいうと思うんだけどな〜。

 

 

話をもどしますが、

 

なんでも、善と悪で考える二元論的な考えかたで、

 

苦しんでいるよな〜って思う。

 

 

で、あと自分のワクワクにしたがっていきるってことができないよね。

 

自分をいきることができなくなる。

 

自分としてのパワーがどんどん落ちちゃうよね。

 

常に、誰かの価値感で、その社会の価値感で生きることになる。

 

それってあきらかに不幸だよね。

 

 

どんどん正しいといういろんな考えにしばられて、

 

自由じゃなくなって、束縛されて。

 

不自由だよね。

 

 

 

あと、排他的になるね。

 

親鸞会は、世の中の人達は無駄なことをしている、と世の中を批判するし。。

 

そういえば、名誉欲の説明で、大統領は名誉欲で仕事をしているだけって批判的に言っていたけど、

 

それってどうかな〜って思うよ。

 

世の中の人々のために仕事をしてたりしてるやん。もちろん名誉欲もあるだろうけど。

 

そういう言葉遣いは人としてどうかな〜って思うかな。

 

「もしいうなら、仏様の目からみたら欲で動いてるのです。」

 

とかだったらわかるけど。

 

 

講師の人も、高森さんも、自分の言葉でいっちゃっているから、

 

「お前は何様やねん。どれだけえらいねん。」

 

とか思うかな。

 

 

あと、他の宗教も批判しすぎ。

 

全部の宗教を批判しているよね。

 

 

あと、本願寺も批判しているし。

 

 

どれだけ自分たちだけが正しいと思っているねん。

 

 

どれだけ排他主義やねん。

 

 

それを仏教、親鸞さんのおしえを根拠にしてやっていたりするけど、

 

ほんまにそうなのかな?

 

高森さん流に解釈している感じがプンプンする。

 

 

僕としては、今はそこまで浄土真宗の教えを研究している訳ではないので、

 

すこし教えは触れるけど、深く触れる予定はないので、

 

この程度の表現になるかなって感じです。

 

 

ほんで、ネット上であきらかに根拠つきで、

 

高森さんや親鸞会の問題をつたえても、

 

高森さんはちゃんと答えないし、修正しないし、

 

自分の間違いを認めることが怖すぎて、

 

逃げてばかりだし。

 

かっこ悪いよね。

 

そんなに間違いを認めるのが怖いなら、最初からこれが正しいって言わなきゃイイのに。そんなに強くいうから、間違っても、認めれなくなったんだよね。

 

 

とにかく高森さんや、親鸞会は、

 

二元論であり、敵をつくり、自分たちだけが正しいといいはり、

 

いつも不安や恐怖に覚えていて、

 

指摘されても修正できなくて、

 

かたくなだな〜なんて思う。

 

少なくとも、人間的には立派ではないよな。

 

少なくとも、人間的には未熟だよな。

 

 

 

人間が成熟したり、

 

社会が成熟すると、

 

多元論、多様性をみとめる。

 

 

なにが正しいとか、何が間違っているのはない。

 

常識と思っているのは、自分だけで、

 

違う人からみれば、常識は違う。

 

みんなちがってみんないい。

 

みんなそれぞれ好きなことをしたらいい。

 

自分からみると、なんでそんなことをしているん?って思うけど、その人にとっては必要なことだったりする。

 

お互いの違いを認め合うからこそ、

 

その違いを活かして、多様性を活かして、助け合っていろんなことができる。

 

間違いとか正しいがないから、

 

間違っていないかな、って不安にとらわれることもへる。

 

お前は間違いだって他人を批判しなくていい。

 

 

束縛もされないし、自由。

 

 

そっちのほうがあきらかに幸せだよな。

 

 

親鸞会は教えを二元論でとくけど、

 

ほんとかな〜って思うよ。

 

お釈迦さんという方がもしすごいなら、

 

親鸞さんがもしすごいなら、

 

そんな二元論的な説き方をするとは思えない。

 

 

人類の成長の逆だから、

 

人の心の発達の逆だから。

 

 

だから、そういう観点からみても、親鸞会ってなんか違うよね。って思うよ。

 

教えも、詳しいことは検討中だけど、なんか違うんだろうなって思うよ。

 

そんな未熟な高森さんが、健全に教えってとけるのかな〜なんて思うよ。

 

未熟な人が教えを解釈したら、未熟な解釈になると思うな〜。

 

教えだけ成熟した解釈ができるとは思えない。